乗鞍岳 ―自然と人間について思ったこと

七月二十五日に乗鞍岳に行った。

 

前日は、長野県の松本付近の宿に泊まったが、景色がきれいとのことで長野県側から乗鞍岳へ登るエコーラインではなく、岐阜県側から登るスカイラインを通って行った。

 

松本から車で平湯温泉へ向かう。

しばらくすると窓の外の風景がみるみると変わってゆく。

町は遠ざかり、ひとけは全くなくなった。窓の外には、聳える深緑の山々や、その斜面をながれる滝、痛々しくみえるほどの落石の跡や赤土がみえる切り立つ斜面がわたしたちを出迎えた。

道路をはしる人間は、そこへ入ると部外者だった。

山々は呼吸をしていてわたしはそこを通るのが怖かった。

ところどころに人がつくったものがある。だが今はそこには誰もいない。

人の気配は自然の中にのみこまれてしまった。

そこは人のいる場所ではなく、白樺や蝶や熊の場所だった。

 

ここから先は、乗鞍スカイラインである。

この道は、戦時中に飛行機の試験場を作るために人の手で拓かれたという。

それを戦後、観光用に道を広げたものがこの乗鞍スカイラインだ。

スカイラインを通るには平湯温泉からバスに乗らなくてはいけない。

一昔前に、マイカーの排気ガスがこの山の植物を害することが問題になったからだ。

乗客は私たちを含め三組だった。

静かな車内から45分くらいだっただろうか、窓を眺めていた。

バスは斜面をうねりながら登ってゆく。

窓の外景色みるみるうちに様子を変えてゆく。

はじめはまっすぐ立っていた木々が高度が上がるにつれ、曲がり始める。幹も枝もまるで高度に苦しみ耐えるかのようにぐねぐねし始める。

また、多くの種類の植物は姿を消し始める。

さらに上へ行くと微生物がいないために、倒れた木々が腐らずにそのまま身を横たえている。

そうしているうちに、あっという間に森林限界を超え、頂上へ。

畳平と呼ばれるそこにはハイマツなどの低木や高山植物の世界が広がっていた。

高山植物の中には、花が開くまでに五年や十年かかるものもあるという。

その日の畳平は真夏にもかかわらず気温は十一度で濃霧であった。

風に運ばれる霧が人体にあたると水滴になり、雨は降っていないのに顔や髪が水浸しになった。晴れていたら、周りの山々や下界の景色が美しかっただろうがその日は濃霧のために五メートル先もみえないような状態だった。

しかし、大きな岩は霧の中に浮かんでいるように見え、足元には今にも消えそうな、可憐でちいさな花が一面にさいていた。

その光景は神秘以外のなにものでもなかった。

 

今回の旅を通して自然と人間について考えた。

ふだん東京で生活しているわたしにとって、畏れを抱かせるような自然や、神秘的な自然にふれることができた経験は非常に大きかったと思う。

東京で生活していたり、インターネットが身近にあると、自分は世界の最先端を生きているのだと錯覚してしまう。インターネット以外にも常にさまざまな情報に触れて生きていることはとても文化的な生き方であるということもできるかもしれない。

しかし、それは本当に人間的な生き方であるのだろうか。

わたしは何か欠けているものがあるのではないかと思った。

自然を感じ、一個の有機体としてのじぶんを意識することは、自分を透明な目で芯から見つめるうえで大切なのではないかと思う。

わたしはいままで、文字、ことばから得られることや、論理や科学的知識ばかり見ていた。しかしそれはこの世界のほんの一側面でしかなかったのだと思う。、これは少々余談になるが、そういうわけでわたしは超自然的なものに懐疑的だった。

しかし、超自然的なものがあるかないかは問題ではなく、人間の性質が超自然的なものを生み出すようになっているのではないかと思う。世界各地で自然発生的に神や宗教が生まれたように。

だから、そんなことは科学的にありえないというのもわかるが、その一方で、科学的にありえないものを生み出してしまうのも人間の一部なんだと心に留めておきたいなと思う。

長野の自然がわたしにそう思わせてくれた。